古代秋田城址  2000年10月15日(日)
〜秋田市高清水〜 

 秋田市の県庁や市役所がある官庁街を北上すると,高清水と称する丘陵地域が広がる。ここは,古代王朝の地方出先機関が置かれた場所である。712年,出羽の国が置かれ,その中心となった「出羽の柵」は,当初,山形県の最上川河口付近にあったらしい。その,出羽の柵が秋田の高清水の地に移されたのが733年のこと。「続日本紀」733(天平5)年の条に「出羽柵遷置於秋田村高清水岡」の記述がある。今から1300年近く秋田城址東門前の出来事である。当時は奈良に都があった。その頃から,この秋田の地に中央の出先機関が置かれ,役人が派遣されていたと思うと,不思議な感覚になる。中央政府に汲みしたとは言え,当時の奈良から見れば秋田は異国の地であり,征服者たちの横暴な行為に業を煮やした先住民の反乱も何度も起こっている。律令国家から派遣されてくる貴族たちは,さぞかし不安を覚えたに違いない。
 さて,その「出羽の柵」が「秋田城」と改称した時期は定かではないが,764年以前のことだという。それから3世紀にわたって,秋田城は北方警備の拠点の地として,重要な位置を占めることになる。
 当時の秋田城は東西・南北ともに約550メートルに及び,周囲を幅2メートル,高さ4メートルの築地に囲まれた壮大な城で,上部は瓦葺き屋根だったという。今はその痕跡すらとどめていないが,平成の世になって,東門が再建された。以前は,運動広場だったところが史跡公園のように整備され,真新しい朱塗りで瓦古四王神社葺きの門だけが建築されている。この地域には,小学校や中学校,県の自治研修所などが建築されていたのだが,国史跡指定地のため,改築時にすべて他の場所に移転した。

 その,秋田城址から少し市街地方向に旧国道(羽州街道)を南下し,石の鳥居をくぐって長い石段を登ったところに古四王神社がある。この神社の起源も古く,阿倍比羅夫が658年に大船団を率いて,顎田(あきた)の浦に上陸したときには,すでに原住民の神が祀られていたらしい。その阿倍比羅夫下向を尊称して古四王(越王)と呼ばれるようになったという。
 また,坂上田村麻呂が蝦夷征討の折に祈願し,再興したとも伝えられている。そのためか,境内入口高清水霊泉入口付近に,坂上田村麻呂を祀った田村神社がある。

 古四王神社から旧国道を渡って,西側の小路を下りていくと「高清水」と彫られた石柱が見える。その隣に「高清水霊泉入口」という説明の標柱が立っているのでわかりやすい。その脇の道を民家の前をかすめるように下りていくと,あずまやの下に高清水の泉が湧いていた。ただし,飲料水に適していないという,保健所の注意書きが添えられていたのは残念であった。古代から連綿と湧きつづける清水の味はどんなものだったのだろうか。
高清水霊泉 高清水というと,のん兵衛には,秋田銘酒を思い浮かべるかもしれない。高清水は,1944年に秋田市と周辺の24の酒蔵が合併してできた会社だが,その酒銘は懸賞募集により,この高清水の岡にちなんで「高清水」という名が採用されたものである。

 この「高清水」の石柱から約50メートルほど小路を下り,香炉木橋を渡ってすぐの右手の階段を上ると,江戸時代の紀行家,菅江真澄の墓がある。
 菅江真澄は三河の人で,「菅江真澄遊覧記」などの著書が有名だが,秋田には何度も訪れており,秋田のことを記した著書も多い。秋田県内各地に菅江真澄の石碑が建っているが,それだけ秋田に縁のある紀行家である。
菅江真澄の墓 1829年,角館で亡くなり,遺言によって門人の墓域に葬られたそうだ。どこにでも見られる墓地の中に忽然と真澄の銘文を記した木板と古色蒼然とした墓が現れる。後を振り向くと眼下に日本海が見渡せた。真澄の墓からはちょうど真正面の位置である。



参考文献:「秋田県の歴史散歩」,秋田県の歴史散歩編集委員会編,山川出版社

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