NO1 懐かしき湯沢出張 1999年5月21日(金)


 私が担当している仕事の一つに,地域連携というものがある。隣接しあい,又は相互に密接なつながりのある地域が,連携して一緒に仕事をやっていきましょうということなのだが,人々の行動範囲が広がり,一行政区域だけでは収まりきらないようになって,俄かにその必要性が叫ばれるようになってきた。私は一種の流行り病のようなものと思っているが,うまく機能すれば,合併ほどは人々に与える抵抗が少ないし,行政として有効な手法かもしれない。足らざる部分を補完しあい,地域住民の交流によって,互いの良いところを吸収するくらいの軽い気持ちで臨むことが肝要だと思う。

 今日は,湯沢市で開催された,日本海側の本荘市から太平洋側の釜石市,大船渡市までの11市を構成メンバーとする北東北連携軸構想の総会に企画調整部長代理で出席した。北上市と横手市が中心となって活動しているようだ。湯沢市は,私が県庁に入って最初に赴任した場所であり,第二のふるさとである。

 1980年4月2日,私は初めて湯沢市に足を踏み入れた。大学の卒業式を終え,サークルの後輩たちに上野駅で見送りされて秋田に戻ったのが3月27日。県庁から勤務先の電話が入ったのが,その翌日か,翌々日だったか。雄勝県税事務所勤務になりました。雄勝県税事務所がどこにあるか全くわからなくて,聞き返したところ,県南の湯沢市だという。県庁といえば,漠然と秋田市山王にある県庁舎しかイメージになかったので,非常に不安になったものである。
 そして,湯沢に着いてまずびっくりしたのが,総合庁舎前の駐車場に堆く積まれた雪の山。湯沢は横手盆地の一画にあったのだ。昔,社会の授業で横手盆地は雪深いところと習った記憶が蘇ってくる。

 県庁に早稲田人会という同窓の集まりがある。そこで新人歓迎会を開いてもらったときに,「秋田に戻ってきたら嫁さん紹介してやるぞ,それまで湯沢で頑張ってこい。」とある先輩に言われた。湯沢市には5年間滞在したが,先輩の言い付けを守れず,その間に結婚して,子供も生まれた。秋田に戻ってから,「扶養家族が3人も増えてしまいました。」と言ったら先輩に苦笑された。

 湯沢の街並みが見えてきた。国道沿いに広がる表町の呑み屋街は当時のままだ。20年前にタイムスリップしたような感覚を味わう。若かったから,随分と無茶な酒飲みをしたものだった。あの呑み屋のママさんはあの時のままだろうか。随分とふけただろうな。そういえば,ここには美人のママが居たんだっけ,様々な思いが駆け巡ってくる。当時,初任給は10万円に満たないほど低かったが,独身寮に入っていたし,東京で6万円の仕送りでアパート暮らしをしていた身にとっては,十分過ぎるくらいの給料であった。

 後ろ髪を引かれる思いで帰路についたが,いつかまた泊りがけで来なければいけない。おっと,昔のことを懐かしがるのは,老化現象の始まりかもしれない。
  

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