まほろば唐松の薪能  2004年6月5日(土)

 県立大学の特別記念講演会を聞いたあと、急ぎ協和町の唐松城能楽殿に向かった。今日は、そこで観世流能楽師の中森寛太師一行を迎えて薪能が行われるのだ。以前、ここを訪れたとき(あきた散歩・唐松神社界隈参照)に偶然、能の定期公演が行われていた。それ以来、一度見てみたいと思っていたが、今回やっと実現した。
 日本には古典芸能と呼ばれるものが数々あるが、能楽は、その格式の高さ、歴史の重み、芸術性の高さなど、どれをとっても日本を代表する伝統芸能といってよい。秋田で本格的な能楽堂はここだけとあってか、年2回開催される定期公演と薪能はいつも大盛況だという。今日も満席の入りだった。薪能とは、闇夜のなか舞台の両脇に据えられた薪の灯りに照らされながら演じる、何とも幽玄で幻想的な雰囲気をかもし出してくれる能舞台である。能は、シテ方やワキ方などの演者、笛や太鼓の囃子方、地謡など舞台に登場するどの動き一つとっても無駄のない精緻に計算しつくされた形式美、様式美の世界である。だからこそ一層、薄暗がりの中、ゆらゆらと揺れる篝火に照らされながら繰り広げられる動きが、幽玄で夢幻の境地に見るものを導いてくれるのだ。
 この日の演目は、「弱法師(よろぼし)」と「第六天」、狂言が「鏡男」。はっきりいって能をみるのは難しい。ある程度、繰り返し同じ演目を見、その内容と意味するところを理解した上でないと、良くわからない部分が多い。それでも、あの無駄のない動き、シテ方の着ける能面や装束の素晴らしさ、朗朗とした謡の響き、あっという間に聴くものを幽玄の世界へと引き込む能独特の笛や太鼓の響きなどなど、内容を知らなくても引き込まれる要素は充分にある。この日が始めての能鑑賞だった私は、台本に首っ引きの鑑賞だったが、舞台をもっとじっくりと見れるような心掛けが必要だったと少し後悔している。次回はもっと勉強してから臨みたいと思った。

今日の演目のあらすじ
能「弱法師(よろぼし):継母の讒言を信じた高安通俊は、怒りにまかせて息子の俊徳丸を追放するが、後悔し、死んだであろう俊徳のために四天王寺で七日の追善施餓鬼をする。悲しみに目を泣き潰した俊徳は弱法師となっていたが、施餓鬼を受けにくる。俊徳が四天王寺の縁起などを語るうち通俊はわが子と気付くが、人目もあり日相観(弥陀の西方浄土に生まれるための行業)をすすめる。寒さも去り、腹もふくれた俊徳は、昔遊んだ名所を浮かれ歩くが、盲目の悲しさ、群衆に巻き込まれて散々な目に遭う。夜更けに迎えに来た父に、恥ずかしさに逃げ惑うが、父は追いつき手を取って故郷へ帰る。

狂言「鏡男」:在京していた越後の男が帰国できることになり、妻への土産に鏡を買って帰る。帰宅した夫は早速妻に鏡を見せるが、初めて鏡を見た妻は鏡の中に見知らぬ女が居ると騒ぎ、夫が都の女を連れてきたと言って怒りだす。夫が説明しようと妻に近づくと、女に近寄るのかとますます嫉妬して怒る。困惑する夫の姿が笑いを誘う。

能「第六天」:解脱上人が伊勢神宮を志し渡会宮に着いたところ、二人の女に行き会う。女は御裳濯川の謂れや渡会宮の由来を語り、僧に仏法の障碍が起こるであろうと神のお告げを言い残して姿を消す。その後、上人が神前で心を澄ませていると、一転俄かにかき曇り第六天の魔王が多くの群鬼を従えて現れる。上人が観念して合掌すると、空から素戔鳴尊が出現し、宝棒で魔王達を打ち懲らしめ、魔王に二度とこの地に現れないよう約束させて天に帰り、魔王も退散して消え失せる。 

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