薬師寺

(平成13年10月6日)

薬師寺金堂と東塔金堂と東塔(国宝)

 10月6日早朝,白岡駅5時45分発の宇都宮線に乗るため妻の実家を出たのは朝も明けきらぬ5時半前だった。辺りは一面に朝靄が立ち込めていた。
 3連休の初日に当たっていたせいだろうか,6時前の時間帯にもかかわらず白岡駅は普段にも増して大勢の人がいた。私もこの日,奈良薬師寺を拝観するため,東京駅6時53分発の東海道新幹線のぞみに乗る予定だった。ところが,私が乗った電車は大宮駅に到着したところで,京浜東北線で発生した人身事故のためストップしてしまった。咄嗟に頭に浮かんだのは,不謹慎にも「あっ,新幹線に間に合わなくなる」ということだった。本当なら,事故にあった人の安否を気遣うべきなのに,なんて自分本位なのだろう。これから仏様に会いに行くというのに,こんな心掛けでは情けないと自分の未熟さを恥じる思いだった。周りを見渡すと,迷惑そうに歯噛みしている人が他にも大勢いた。この時間帯に先を急がない人は居ないと思うが,人間とはかくも身勝手なものなのだ。結局,指定券を取っていたのぞみには間に合わなくて,7時33分発ひかりの自由席で京都に向かった。誰に迷惑を掛けるわけでもない遊びの旅行なのだからこれで十分なのだ。
 薬師寺は,天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気快癒を祈願し,薬師如来を本尊とする寺の建設を発願したのが起源とされる。西暦680年のことだった。しかし,天武天皇はこの寺の完成をみることなく,この世を去った。薬師寺が完成したのは698年のこと。世は文武天皇の時代となっていた。当初は藤原京の地に建てられたが,都が奈良に移されると,薬師寺も現在地に移築された。「竜宮城のようだ」と人々から称えられた金堂を中心に七堂伽藍が立ち並ぶそれは見事な寺だったらしい。
 私が,この寺に最初に訪れたのは高校2年のときの修学旅行だった。そのときは三重の塔(東塔)がポツンと建つ何にもない寺だった。お坊さんの話が面白かったという記憶だけが残る。当時は薬師三尊も仮住まいの身だったらしいがほとんど記憶にない。また,聖観音菩薩立像が祀られる東院堂も現在のまま建っていたはずだが,それも記憶にない。高校の修学旅行なんて所詮そんなものだ。

玄奘三蔵院伽藍玄奘三蔵院伽藍

 その後,薬師寺は金堂が復興し,西塔,中門,回廊など白鳳時代の大伽藍がそのままに復興されつつある。今は大講堂が建築中だ。さらに,埼玉県岩槻の慈恩寺から分骨された,薬師寺が始祖と仰ぐ玄奘三蔵の頂骨を祀るため,平成の世になって玄奘三蔵院伽藍も建築された。そこに平山郁夫画伯の大唐西域壁画が完成し,今年一杯公開されている。今回,薬師寺を訪れたのは,実はこの壁画を見ることが目的の一つであった。
 まず,始めに御本尊の薬師如来をお参りする。両脇に日光菩薩と月光菩薩を携え,薬師三尊と呼ばれるが,いずれも姿の美しい仏像である。薬師如来は我々の病苦を取り除いてくれる仏様である。阿弥陀如来と違い,現世利益が専門だから,精一杯お祈りして健康を守ってもらわなければいけない。続いて,東西両塔が立ち並ぶ三重の塔を眺める。フェノロサが「凍れる音楽」と称した東塔。屋根と裳階の絶妙なバランスがリズム感をかもし出しているということなのだそうだ。「凍れる音楽,凍れる音楽」とつぶやいて見たものの,凡人には今一つその意図がしっくりとこなかった。
 続いて,10月8日から特別公開される予定の国宝「吉祥天画像」が今日から一般公開されていた。3連休だったための特別な計らいだろう。わざわざ尋ねていった甲斐があったというものだ。切手にも描かれた「吉祥天画像」は思いのほか小さな絵で,厳重に扉付きの額に飾られていた。慈悲に満ち溢れたふくよかな吉祥天の顔を拝んでとても幸せな気分になれた。
 最後に,お目当ての「大唐西域壁画」。平山画伯が直接シルクロードを歩きスケッチして描き上げたもので,構想から含めると30有余年に及ぶ力作だ。いずれも素晴らしい出来栄えで,薬師寺の新たな顔になることだろう。中にアフガニスタンのバーミヤンの石仏が描かれたものがあったが,これがタリバンが破壊した石仏だと思うと,いいようもない憤りを感じた。この石仏は玄奘三蔵の時代からあったもので世界遺産にも登録されていたものだけに惜しまれる。


旅の空から目次