令和2年度 勉強会in宝来館
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開催日:令和2年7月11日(土)〜12日(日)
場所:岩手県釜石市「浜辺の料理屋 宝来館」
参加者名簿  

 全国的に新型コロナウィルス感染症が流行する中、めぐみネットワークの定例会をどうするか、開催を疑問視する声もあったが、今回は定例会ではなく有志の勉強会という形で、また宿泊客の減少で困っている釜石の宝来館で開催することとなった。宝来館は震災の年の12月、まだオープン前にめぐみネットを開催した思い出の場所である。残念ながら、青森県は、直前に感染者が出たため、今回は全員が欠席となったが、感染対策を十分に取った上での開催である。
「光り輝く三陸を目指して 〜台風被害を乗り越えて〜」 三陸鉄道株式会社
        代表取締役社長 中村 一郎 氏

 昨年3月に、盛〜久慈間の全線が開通した。最後まで残ったのが、釜石〜宮古間の旧JR山田線区間で、紆余曲折があったがJRが線路を復旧させ、運営を三陸鉄道が引き継ぐという形で交渉がまとまり、三陸鉄道リアス線として運行できるようになった。
 それが昨年10月に台風19号で全線が被害を受けた。被害総額20億円という甚大な被害で、会社では復旧費用は賄えなかったので、国1/2、県・市町村が1/2の費用負担をしてもらい、今年3月20日に何とか全線開通にこぎつけることができた。
 三鉄は昭和59年4月に運行をスタートして、この年度が過去最高の乗車人員で268万人になっている。以後、年々人口減少やモータリゼーションの進行に伴い乗車人員が減少していく中で、東日本大震災の被害を受けることとなった。東日本大震災は全線復興まで、まる3年かかっているが、NHKのあまちゃん放送効果もあって、その後は横ばいから若干増加に転じていた。さらに、昨年の釜石・宮古間が開通したことによって一月の利用客が10万人台と増加傾向にあったところに10月の台風被害、さらにはコロナの影響で大幅減という状況に陥っている。
 これからは、地域のイベントとタイアップして、取組を強化していきたい。昨年、AKB48に三陸鉄道の応援大使に就任してもらった。今年3月の全線復興イベントにAKB48に来てもらい、ミニコンサートを実施する予定だったが、残念ながらコロナの影響で中止となった。また、このたび鉄印帳という取組がスタートした。これは全国の第三セクター鉄道40社が共同して取り組んでいる事業である。
 今後の新たな取組としては、三鉄そのものを観光資源として魅力度をアップしていく。その一環として様々な企画列車その他をやっていきたい。次に、三鉄を学びの場としての活用という事業。沿線の大槌町にある東京大学海洋研究センターとタイアップして、列車の中で三陸の海や魚の学習を提供するということに取り組んでいきたい。3点目として、健康づくりという観点から、環境省が整備しているウォーキングコースのみちのく潮風トレイルとタイアップしたり、サイクルトレインとして、鉄道に自転車を持ち込んで、好きな所で降りてもらってサイクリングを楽しむなどということを考えている。
 三鉄としては、地域の皆さんの足という役割と、地域を活性化させる役割の二つをミッションとして頑張っていきたい。「笑顔をつなぐ、ずっと・・・」というのが、三鉄のモットーとなっている。乗客、社員、地域の皆様の笑顔を我々がつないでいくという役割を今後とも果たしていきたいと考えているので、ご支援をよろしくお願いしたい。

【質疑応答】
菊池:全線開通して利用客が伸びた要因は、個人の利用客が団体の利用客か。
中村:団体、個人客両方が伸びた。リアス線が全線開通するというニュースが大々的に全国放送された影響だと思う。

金子:フェイスブックで色々と情報発信をされていて、それを見ていると中村さんはとても楽しそうに仕事をしている。実は鉄ちゃんだったのか。
中村:それほど鉄道ファンだったというわけではないが、会社に来てから鉄道に関心を持つようになった。マスコミに情報発信することは重要だと考えているので、どんな小さなネタでも、マスコミに流すようにしている。
金子:三陸鉄道のマークは何を意味しているのか。
中村:正確な情報を持ち合わせていないので、後でお答えする。
「私が体験した3.11 皆さんに伝えたいこと」
  (株)かまいしDMC 地域創成事業部
                  菊池 のどか 氏


 東日本大震災時、釜石東中学校3年だった菊池のどかさん。釜石東中学では当時防災教育が行われていた。防災教育のねらいは、一つ目は「自分の命は自分で守る」ということ。これは小学校のときに学ぶ。中学校になると、助けてもらう側から、誰かを助ける側に回ろうということで、「助けられる人から助ける人に」を合言葉に防災活動が進められた。三つ目は「防災文化の継承」。この地域はチリ地震の津波や、昭和8年の津波で被災した方が存命されているので、その経験を聞くことで、防災の文化をつないでいく活動が行われていた。
 釜石東中学の防災教育の活動内容は、まずは小中合同の避難訓練。当時、釜石東中学校と鵜住居小学校は現在のスタジアムの所に隣接していた。その際、中学生が小学生と一緒に避難し、歩くのが困難な小学生をリヤカーで運ぶ訓練もしていた。また、宮古工業高校との交流から、津波模型を使った実験で、津波の高さがどれくらいあれば、どこまで津波が来るかというのを学習していた。さらに、津波災害のときに自分は無事に避難したことを知らせるために家に貼ることを想定して作った「安否札」というものがある。3年計画で毎年1000軒ずつ配布する計画でいたが、2年目のときに震災がきてしまったので、結果的に1000軒しか配れなかったが、これで助かったという声もいただいた。それから、「てんでんこレンジャー」という地域の人たちに分かりやすく、面白おかしく防災活動を伝える取組も行った。
 震災当日は、卒業式の二日前で、ほとんどの生徒が学校に残っていた。震災が起こった時は、学校に居た人は皆校庭に出ていた。菊池さんは家が遠かったので迎えを呼ぶため公衆電話をかけていたところだった。先生の指示で校庭で点呼も取らず、すぐに学校から800メートル先にある「ございしょの里」に逃げた。学校が海抜2メートルでございしょの里は海抜4メートルなので、ほぼ平らな所を逃げたことになる。この時は、小学生が学校から出てこなかったので、小学生を置いて中学生だけが逃げた。その後、小学生たちも「ございしょの里」に逃げてきたのを見て、安心したのを覚えている。ここで初めて点呼を取り、小中学生とも全員居ることを確認。ここからさらに300メートル先にある「やまざきデイサービス」に避難した。ここは海抜15メートル。この時は、中学生は小学生の手を引いて一緒に避難した。途中、反対方向に走っていく車があるが、これは子どもを迎えに行く保護者の車で、先生たちが車を止め、子供たちは全員避難したことを伝えると、保護者は車をその場に置いて、子どもたちと一緒に避難した。「やまざきデイサービス」に着く頃には、すでに津波が発生していて、ものすごい音がした。ヘリコプターが何台も近くを飛んでいるような音だった。また、海とドブが混ざったような臭いがし、津波の方から風が吹いてきた。あちこちで泣き叫ぶ声を聞いた。この時の声は今も忘れられない。そうして大騒ぎして泣き叫びながらも、みんな山の方にある「恋の峠」(海抜44メートル)という所まで逃げた。生徒の中には、もっと上の山の方まで逃げた者もいる。それで、みんな助かった。
 ここで伝えたいことは、みんなのおかげで生きられたということ。小学生が逃げられたのは、地域の消防団の人が声をかけてくれたおかげだし、その他にも目に見えないところで、車の誘導してくれた地域の人も居たし、その他にもそのようなことをした人は沢山いるはず。今は、その方々に感謝して生きているということが、一番伝えたいことである。
 私は生きることができたが、亡くなった人も沢山いる。当時、学校で防災教育をやっていたにも関わらず、自分がうまく伝えられていたのか、果たしてそれが最善だったのか、常に疑問を感じていた。そこで、未来館というところに就職して、防災のことを伝えていくことにした。実は、大学生の頃は防災から逃げていた時期もあった。防災に携わるということは、自分の判断で人が亡くなってしまうこともある。それは耐えられない。しかし、この町に帰ってきて、みんなの顔をみたら、やっぱり自分はこの人たちを助けたいと思うようになった。これから、何ができるか分からないけれど、自分の人生をかけて見つけていきたいと思う。

【質疑応答】
滝本:震災の体験を話すことによって、つらいことを思い出すことになると思うが、菊池さんがこの仕事を選んだ気持ちを教えてほしい。
菊池:生き残ることと、生き延びることは違う。自分は震災のとき周りの人に支援されて生き延びることができた。今度は、自分が支援して助けられるよう、人と人とのつながりを持てるように仕事をしている。
各県持ち寄りの地酒 三陸鉄道の若手社員から自己紹介をしてもらった
 
翌日、宝来館の岩崎女将からもお話を伺った。
今回の参加者名簿
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