平成23年度 第19回定例会
「リバイバル三陸」

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開催日:平成23年12月23日(金)
場所:岩手県釜石市「宝来館」
参加者名簿  
 平成12年に創設された北東北めぐみネットワークは、今年、創設10周年を迎え、春の例会を記念大会として開催する予定でおりました。しかし、未だ小雪が舞い散る3月11日、午後2時46分、東日本大震災が発生。余りに多くのかけがえのない生命と生活が、わずか1時間足らずの間に、ついさっきまで、そこにあった日常から失われていきました。

 そして、積み上げられてきた私たちの交流・連携もまた、行政として、隣人として、震災対応・復興支援”に何ができるのかという新たな課題を問いかけられることとなりました。こうしたテーマは、我々が何らかの道筋をつかむまで、あるいは、人びとの心にもう少し確かな灯りが見えるまで、少なくとも3年は続けていかなくてはならないと思っています。

 このたびの忘年会を企画するに当たり、秋田が幹事県を担いながら、岩手を会場県とし、釜石市で開催することとしましたのは、当ネットワークの"総意”として、そうした信念の一端を示すものであり、官民を問わず在退職を問わず、初めてとなる方々も含め、より多くの皆さんに彼の地に足を運んでもらいたいとの呼びかけを表するものでもあります。

 講師には、震災発生から14分後の午後3時には、運動公園やコミュニティーセンターなど、144の施設の開放を決めるとともに、照明設備や発電機を設置、自衛隊等を受け入れるための準備を進め、"後方支援のモデルケース”と評される取り組みを展開、「第6回マニフェスト大賞・復興支援賞」も受賞した本田遠野市長、宿泊客と従業員を裏山に避難させた後、まだ津波の襲来に気づいていない近所の人たちに知らせて回り、震災後は100名もの避難者を2週間にわたって受け入れ、リーダーとして共同生活を支え、、現在は全国のファンの応援を背に、再開への準備を進めている旅館宝来館の女将の岩崎さん、そして、自宅や会社(保険事務所)が被災し、仮設住宅住まいを余儀なくされながらも、"高齢者の生活をサポートする応援隊”として、暮らしに必要なほとんどの業種をメンバーに、食料品や雑貨品の宅配、買物代行、建物修理など、地域にとってなくてはならない事業を起業、今は来年3月11日までの市内への鎮魂と復興の鐘の建立をめざし設立した「釜石復興の風プロジェクト」の活動も手がける協同組合ライフサポートかまいし理事長の八幡さんの3をお迎えできることとなりました。

 時節柄、大変お忙しく、また、天候も厳しい時期であると存じますが、意のあるところをお汲み取りいただき、地位や立場を越え、互いに声をかけあい、23日午後から24日午前までの2日間、時間をお割きいただき、ひとりでも多くの皆様に、同じ北東北に生きる仲間として、釜石市にお集まりくださればと願っております。

           一隅を照らす(者)、これ則ち国の宝なり(照千一隅 此則国宝)

秋田県幹事一同
 宝来館女将 岩崎 昭子 氏
 従業員や宿泊客を避難させたあと、近所の人たちに津波がくることを知らせている間に、逃げ遅れて自ら津波に飲み込まれ、九死に一生を得た貴重な体験談を披露してくれた。その臨場感に参加者一同圧倒される。

(以下、岩崎さんの話から)
 1日目が一番つらかった。夜になり、旅館に戻って、私が足元を懐中電灯でかざす灯りが、今なお津波で流され海中を漂っている人には絶望の灯りと見えるのではないかと思うと心が締め付けられるようだった。
 従業員3名がなくなったが、いずれも高台に避難したあと、津波が来るまで30分の時間があったため、家族の安否を確認しに戻った人たち。「津波てんでんこ」の言い伝えを守っていれば、誰も死なずにすんだ。
 津波に流されたとき、ボートが顔の上にあり、空気の層ができていた。いつの間にか、ボートがなくなり、裏山の高台に流されるような形で助けられた。その8秒間の記録を従業員が撮影。You Tubeで全世界に発信され、数多くのアクセスがあった。
 そのときの体験から、各戸に防災袋を用意するより、避難した高台など山の上に備蓄があると助かる。
地震後、奇跡的に津波に流されなかった旅館に残っていたが、3日目、自衛隊の人の顔をみて、初めて安心できた。それまでは、回りの建物がすべて津波に流されてしまい、「猿の惑星」に降り立ったような気分だった。「ここはどこ。」というような気持ち。
 3月26日まで避難所で暮らした。壊れた車からガソリンを抜き取った。壊れた自販機からジュースも抜き取った。生きていくためには、やむを得ない措置だった。近くの薬王堂が、いち早く営業を始めてくれ、紙おむつを提供してくれたのには助かった。
 これから重要になるのは福祉。とくに、心のケアが大事である。日本は素晴らしい国だ。これが他の国だったら、私たちは難民になっていた。それが、色々な人の助けを受け、こうして暮らしている。これからの復興に必要なのは、学者ではなく職人。実際にものを作る人が必要である。
 遠野市長 本田 敏秋 氏
 遠野市は釜石市、大槌町の内陸部に隣接するまちである。地震直後に避難者の受け入れを決め、直ちに行動を開始する。のちに後方支援のモデルケースとたたえられる取り組みは、本田市長の優れたリーダーシップによるところが大きい。

(以下、本田市長の話から)
 地震後の様々な活動を通じて、何も動かない国会議員や国家公務員には憤りを感じた。今回、やっと釜石自動車道が国の第3次補正で認められた。復興支援道路である。被災地では病院もなくなる。いわば命をつなぐ道である。遠野は人口が3万人を切るところまできた。これからはネットワークの必要性が認識される時代。連携と交流がキーワードになるだろう。
 協同組合ライフサポートかまいし理事長
    八幡 徹也 氏
 自らの地震当日の状況を赤裸々に語られた八幡さん。津波被害による生死は紙一重のこと。淡々とした話しぶりだったが、かえってその方が我々聞く側の心にしみて来る。

(以下、八幡さんの話から)
・地震のときは、ガセネタが多い。
・隣近所の人たちの多くが亡くなった。家族全員無事だった方がめずらしい。恵まれていた。
・津波回復後、自宅を整理していたら、自宅から若者の遺体が発見された。
・今も自宅には帰れず、アパートに暮らしている。
・地震後、困ったことは水洗トイレが使えないこと。また、情報が一切入ってこなかったことが一番大変だった。
・津波により大きな被害をもたらした海だが、我々の海はすぐそこにある。ここで暮らしていく以上は、共存しないといけない。
・NPOで、復興のうちわを作った。1枚300円で販売している。
・復興の風プロジェクトと題して、釜石駅前に復興の鐘の建立を目指している。大晦日の12月31日に除幕式を行うので見に来てほしい。
・これだけ大きな被害をもたらした津波被害は、是非未来に伝えていかなければならない。それが、生き残った我々の務めである。
会場からの意見、質問を受ける 宝来館女将 岩崎昭子さん
宝来館 3年前懇親会が開催された場所は津波でなくなっていた
従業員や宿泊客らが避難した裏山の高台に登る坂道  裏山の高台から宝来館、大槌湾を眺める
 津波被害者の慰霊碑 津波被害の爪痕が生々しい海の家
車の残骸、ここは住宅が立ち並ぶ集落だったが、すべて津波に流され、今は広い空間となっている。 津波被害の爪痕
青空と海水浴場 今は穏やかな大槌湾の海
奇跡的に残った宝来館前の松並木 ガレキの山
ガレキの山 鉄骨だけ残った建物
今回の参加者名簿
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